Google

Yahoo! JAPAN



黒い霧事件 リンク集

日本野球連盟は八百長に関与したとされた選手たちに対して、八百長が敗退行為(野球協約第355条)に該当するとして、永久出場停止処分(永久追放)や長期間の出場停止、年俸の減額などの厳罰を与えた。結果、当該の選手達は事実上の引退に追い込まれる結果となった。 また、選手の一部はオートレースの八百長事件にも深く関連し、こちらではオートレース選手19名が逮捕されている。また、広瀬登喜夫が冤罪によって逮捕されるなどの問題も発生した。書物によってはこれも黒い霧事件の一連に含めることがある。 一説には、八百長に関わっていた選手は他にも判明していたが、全て処分すると「プロ野球存続に関わる」として、各球団の力関係により処分されなかった者もいたといい、その全貌は不明な点も多い。

* 1969年 - 報知新聞の西鉄ライオンズ担当記者がカール・ボレス選手から「チームメイトにわざとエラーをする選手がいる」という話を聞き、調査を開始。その結果報知が八百長の疑惑を掴む。報知は読売新聞の社会部と組んでさらに調査を進め、西鉄の選手と暴力団の"黒い交際"の存在と西鉄側の中心人物が永易将之投手であるという情報を掴んだ。 * 1969年10月7日 - 永易が公式戦で暴力団関係者からわざと試合に負ける「敗退行為(八百長)」を持ちかけられ、それを実施していたことが判明した。西鉄は永易をシーズンオフをもって解雇することを決定。翌日の10月8日、読売新聞と報知新聞が報道。この報道の後、永易は人目を避けて福岡から名古屋、札幌と移動を続けて約半年の間行方をくらました。しかも、その間の逃走資金は永易の背後にいた暴力団員が西鉄オーナーを恐喝して永易に提供させていたことが後に発覚する。 * 同年11月28日 - コミッショナー委員会(当時はコミッショナーの権限については宮沢俊義委員長をはじめ、金子鋭・中松潤之助の3人が合議制で担当した)は永易に対する「永久出場停止処分」(永久追放)という日本野球界初の厳罰処分を下す。 * 1970 年2月14日 - 巨人コーチ・藤田元司が1969年の第32回衆議院議員総選挙において暴力団と共に選挙応援を行っていたこと、当時副業として経営していた会社で発生した人事トラブルを解決するために暴力団員を雇っていたことなどが問題となり、球団から1カ月間の自宅謹慎[1]。 * 同年3月9日 - 衆議院予算委員会で野球賭博をはじめとするプロ野球関連の問題が取り上げられる。翌10日にこのことを報道した読売新聞は初めて記事で"黒い霧"という用語を用いる。 * 同年3月18日 - 衆議院法務委員会で宮沢委員長らが参考人招致されて野球賭博、藤田問題(後述)、元南海ホークスの長谷川繁雄が和歌山市内の崖で転落死した問題についての集中審議が行われる。  * 同年4月1日 - 雲隠れしていた永易が週刊ポスト記者との独占インタビューに応じ、その録音テープがフジテレビの深夜番組「テレビナイトショー」で放送される。さらに8日の同番組では都内某所で永易が同番組の司会者・前田武彦のインタビューに応じた様子が放送される。前田とのインタビューの中で永易は「他にも敗退行為(八百長)をした選手がいる」と発言し、それを行ったのではないかと疑われた西鉄の6人の選手を公表。池永正明・与田順欣・益田昭雄の3投手、捕手の村上公康、船田和英・基満男の2内野手が対象とされ、後日コミッショナー委員会は永易を含む7人に事情聴取を実施。 * 同年4月22日 - オートレースの競走(レース)中の違反で送検されたオートレース選手が「プロ野球選手がオートレースの八百長に参加した疑いがある」と自供。23 日、小型自動車競走法違反の容疑で前年、中日ドラゴンズを引退した元西鉄投手の田中勉、元大洋ホエールズ投手の高山勲、元・暴力団森岡組の準組員藤縄洋孝が逮捕される。このうち、田中と藤縄は後にプロ野球・中日球団でも敗退行為が行われたことを供述、さらに田中は前述の池永に100万円を渡し、西鉄球団で行われていた敗退行為に参加するよう促したことも明らかになる。 * 同年5月6日 - オートレースの八百長に参加した罪で中日のエース・小川健太郎が逮捕。後に、前述の田中・藤縄と同様に中日球団で敗退行為を行っていたことも認めた[2]。 * 同年5月9日 - 敗退行為に関わった疑いのある選手として東映フライヤーズの田中調、森安敏明の両投手の名前が公表される。 * 同年5月14日 - 近鉄バファローズの球団職員・山崎晃が1967年のシーズンに敗退行為への参加を強要されたことが報道される。 * 同年5月19日 - 阪神タイガース内野手の葛城隆雄がオートレースの八百長容疑で逮捕。 * 同年5月25日 - コミッショナー委員会は西鉄の6人の当該選手について以下の処分を下す。 o 池永、与田、益田の3人の投手は永久追放処分。理由は、与田と益田については敗退行為を認めたため、池永については敗退行為の勧誘に際して受け取った100万円の返却を怠り、また野球機構に通報しなかったため。 o 村上と船田は1970年11月30日まで、試合を含む完全野球活動禁止処分 o 基は厳重注意処分。 * 同年6月から7月にかけて、次のコミッショナー委員会裁定が相次いで発表される。 o 6月3日 - 中日・小川を永久追放 o 6月15日 - 近鉄球団職員・山崎を永久追放 o 6月18日 - 阪神・葛城が3カ月の期限付失格選手に指名(規定により期限満了後は自由契約となったが、この件が致命傷となりそのまま現役を引退)。 o 7月30日 - 東映・森安を永久追放、田中に厳重戒告 * 同年9月8日 - ヤクルトアトムズ内野手・桑田武がオートレース八百長の疑いで逮捕され、後日コミッショナー委員会は出場停止3ヶ月を決定する(永久追放にはならなかったがこれが致命傷となりその年現役を引退) * 同年11月30日 - 阪神投手・江夏豊が「野球賭博の常習者との交流をしていた」という理由で、セ・リーグ会長から戒告処分を受ける。 * 1971 年1月11日 - 南海ホークス投手・三浦清弘がチームメイトの投手・佐藤公博から敗退行為の誘いを受けてその報告を怠ったとして戒告処分とする。 * 同年1月29日 - 大洋コーチ・鈴木隆、投手・坂井勝二が暴力団とのかかわりを持った疑惑が持たれていたことから球団から同日付で1軍の出場無期限禁止と減俸処分を課す * 同年2月15日 - ロッテ投手・成田文男が野球賭博の常習者である暴力団と交流していた疑いで、球団より1カ月間の謹慎を言い渡される。 * 同年5月20日 - コミッショナー委員会の宮沢、金子、中松の3委員が揃って辞任。「やるだけのことはやった」とコメントし、事実上"黒い霧"についての調査が終了。

永久追放者を出した西鉄・中日は戦力の低下が見られた。特に西鉄のそれは著しく、1970年から72年と3年連続最下位、観客動員も激減して球団経営が完全に行き詰まり、1972年シーズン終了後に身売りされることになった。同時にパ・リーグの人気も下降することになった。 この他、黒い霧事件の余波で甚大な迷惑を被った人物としてはオートレース選手の広瀬登喜夫がいる。当時オート界随一のスター選手として全盛期であった1970年10月に逮捕され、そのことでオートレース界を追われ、30代前半という選手として最も充実するはずの時期を4年半以上に渡って裁判闘争に費やす羽目になった。冤罪であったとして控訴審で無罪判決を得てこれが確定し、オートレース選手としてようやく復帰がかなったのは1975年10 月、逮捕から実に丸々5年を空費した。 事件を最初に報じた読売新聞および報知新聞が共に巨人の親会社でもある読売新聞グループの傘下だったことから、一部に「事件は読売・巨人によって仕組まれた陰謀」とする見方が存在した[3]が、巨人の中にも処分者が存在することや、選手への「永久失格処分」および身売りに対しては消極的であったこと、選手分配ドラフトの協力体制、稲尾和久の著書などから現在では完全に否定されている。また稲尾は、事件後同一リーグである阪急と南海の非協力体制を「一生涯忘れない」と非難している。

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


Copyright (C) 2010 黒い霧事件 リンク集 All Rights Reserved.

看護師になるには リンク集1 リンク集2 リンク集3 リンク集4